
休日、何かしたいが、体と気持ちがそのやる気についていかない。
今回はそんな時、そんな気持ちに焦点を当てたお話です。
1 》喧騒を忘れ、充実した休日を過ごしたいと考えている話
日々の仕事場や学校での喧騒を忘れ、充実した休日を過ごしたいと考える。
せっかくの休日、「普段できないことをやろう!」と意気込んだは良い、、
休日の計画だけなら、たくさん立てていたような気がする。だが、体がそのやる気について行けてない
何もしたくないというわけではない
だが、特にどこにもやる気が向かず、自分が今本当に何をしたいのか分からない
だからと言って何もしないのは、時間を無駄に浪費しているようでむず痒い。
2 》たまには何もかも忘れて、休日を過ごしたい

せっかくの休日、自発的に動くことなく天井を見つめて1日過ごしても本来良いはずなのだ
では、なぜ「何かに取り組んでなければいけない感」に取りつかれているのか?
社会学者的証言1
現代、ツイッター、インスタを中心とするSNSにより自分とは本来無関係なはずの人のことまでずいぶん身近に感じられる
その中に当たり前のように存在する、自分より優れた人、充実した生活、煌びやかな世界の話題...etc.
近年になって悟り世代という言葉が日常的に使われたりするが、まったく欲のない人間なんてまずいないだろう
どこか他人と比べて劣等感とまでいかなくとも、少し羨ましいくらいには感じているはずだ
多くの人は学歴や社会的地位など、主観的な評価よりも客観的な評価に重点を置いて自分を考える。
それだけ、世間が自己顕示欲といものに支配されているのだろう
こんな環境の中、せっかくの休日すら充実させて過ごせない人間は、「世間の流れに取り残されている感」が焦りを生み、休日何もしないことに対して罪悪感にも似たむず痒さを覚えることは容易く想像できる。
そんなときにSNSを開こうものなら、こんな自分をあたかも煽ってきているかのような言葉の数々を目にすることになる
自分が求めてもいない時に自己啓発本のような言葉を投げかけられても、自己啓発どころか自分が虚しく、空っぽに思えてくるだけだ
こんな状況に追い込まれてしまった人間はひとまずこう考える
(´∀`)「明日から頑張ろう!」
ここまで書いておいてなんだが、こんな無駄なことを考えているより余程生産的な考え方だろう。
どれだけ考えても解決することはなく、考えれば考えるほど自己嫌悪感でいっぱいになるより有意義である。
友人A的証言2
貴重な休日という自由な時間をとにかく充実させたい
普段は仕事に追われて、自分の趣味を楽しんだり、行きたい場所に出かけたりすることができない。
確かに、家で何もせずに過ごすことも、休日にしかできないかもしれないが、それでは休日が本質的に充実しているとは言い難いのではないか。
足を延ばし、普段いけない場所へ行く、おいしいものを食べる、友達とバカ騒ぎをする。これをやれてこその休日
そもそも、休日は自然に休めて当然であって、休日に何かをしようと意気込むべきではない。自分のやりたいことを本能のままに求めてこその休日だ!
3 》どうやって充実した休日を過ごそう?

どんな理由であれ、何かをしようと考えていて、それに体がついていかないという人は、私を含め自発的に行動を起こそうと考えている人が大半だろう。
そこには自分の意志しか介入しないため、自分の気分次第ですぐに計画が頓挫してしまう。
そんな人は、たまには受け身になって物事を進めるという姿勢が必要なのかもしれない。
- 友人を誘ってみる
- ジムや英会話教室など施設の予約を取る
- 新しい機材を購入する
4 》でも、結局何がしたいのか分からん
ここまで、まったく自分に当てはまらないという人もいただろう。
いざ、自由な時間に何かを始めようと思っても結局なにをしたいのか分からない。
普段から、休日のために働いているといっても過言ではないにも関わらず、いざ休日になると何かをしようとまったく奮い立たない。
自分は、多趣味な人間だと思っていたがそもそも動くことにすらやる気が出ない。
「休日なんもしてねー('A`)」と軽く後悔しつつ眠りにつく。そして、いざ休日が終わると次の休みを楽しみ待つループ
休日に必要以上に休息を取っても、どこか充実していたように思えない人は多いのではないだろうか、
こんな記事を書いているのも、私自身どこかこんな気持ちを整理するためだったのだろう

正直、こんなことで悩んでいても、ネガティブな発想しか浮かんでこない。この記事も書いている途中も社会へのアンチテーゼ特盛の文章になっていたため、かなり加筆修正したほうだ('A`)
「休日に何かをしなければいけない」という概念にとらわれず、並べく速く切り替え、個人の価値観に合った、充実した休日を過ごそう
皆さんにとって、充実した良い日となりますように。[完]